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2011年7月 3日 (日)

使徒言行録4章5~12節 「イエス・キリストの名」

「キリストの名」に包まれている状態、聖霊が注がれている状態、その時に人々はキリストに向かって変えられていくのです。今日の使徒言行録を読んでいくと、福音書で描かれているペトロの姿とは全く別人のような堂々と胸を張ってイエス・キリストを証言する、その姿が現れています。福音書では確かにペトロは弟子たち人の中の代表でしたが、どちらかというと、早とちりをし、おっちょこちょいで、しかも、イエス・キリストの逮捕の場面では、我先に逃げ去った、そういう人です。そのペトロが今や聖霊の働き、「キリストの名」に包まれていることによって、堂々と逮捕され、当時の権力者たち、知識人たちの前で、無学なものでありながら堂々と語り続けているのです。わたしたちは、色々な難しい問題が起こってくるときに自信をなくしたり意気消沈してどうしたらいいのか分からなくなってしまう、何を答えていいのかわからないということが、しばしば起こってきます。けれども今日の聖書を何度も読むときに、あのペトロが、かつての惨めなペトロではなくて、聖霊に満たされて語り堂々と立っている姿を通して、ペトロが変えられたようにわたしたち一人ひとりも胸を張って生きていく生き方が備えられている、ということが知らされます。つまり、主イエス・キリストが生きた生き方、十字架に磔られ、よみがえった、その力が聖霊の働きにおいて一人ひとりに備えられているということです。十字架に相当するどのようなことがあったとしても、そこから生き返っていくよみがえりの力が備えられていくし、何も心配することはないということです。今やわたしたちは、その権威について「イエス・キリストの名」によってと答えることができるのです。かつて、主イエスが語った姿(ルカ21:12-19参照)を追体験するかのように、ペトロは聖霊に満たされ、聖霊の促しを受けて語っていくことができるのです。「イエス・キリストの名」に包まれてある存在がキリスト者であり、キリストを信じ従うものであるのです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(4:12)主イエス・キリストにしか、そのような力は与えられていない、ということです。そのことを公に語っていき続けるのが教会というところです。その出来事がわたし(たち)と全く無縁ではなくて、わたしたちの日々の暮らしに、「キリストの名」のゆえに介入してしまっているのだと。わたしたちの日ごとの生活は「キリストの名」によって包まれてしまっているがゆえに、聖霊の注ぎは決して無効にならない、ということを信じることを教会は赦されているのです。

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