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2011年7月10日 (日)

使徒言行録8章26~28節 「信仰の同伴者」

フィリポが主の使いによってガザの寂しいところに行くと、そこに馬車に乗った人がいました。この人はエチオピアの宦官であったとあります。女王カンダケの全財産を管理していた高官、官僚です。申命記の規定によると宦官は正式なユダヤ教徒にはなれません。しかし、聖書を読みユダヤ的な生活をするというユダヤ教の一周り外側に位置する人々を「神を畏れる者」と呼ばれる人たちです。ユダヤ人から見ると、ユダヤ人と異邦人の間にいる、しかもユダヤ人側に寄っている、そういうあいまいな存在であるのです。その「神を畏れる者」であった高官が帰りしな馬車に乗って聖書を読んでいたと言います。当時は音読が基本だったようですので、声を出してイザヤ書を読んでいると、フィリポが走り寄って「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねます。そうすると宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答える。馬車に乗って聖書を説明してくださいという頼みがあってフィリポが、その聖書を解き明かしたということです。「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」(8:35)このフィリポがしたことというのは、聖書を読む人、その解説をしてイエス・キリストへと連れていく手助けをするという行いをしたということです。今日の聖書を読んでいくと、フィリポが口を開き、聖書のこの個所から説きおこして>」とありますが、これは主イエス・キリストがすでになさったことです。生前の主イエス・キリストの活動というものは聖書の成就でありましたし、とりわけ復活のキリストという点から考えますとエマオ途上の話を思い起こしていただきたいのです(24:25以下参照)。今日のフィリポの話のもとには、主イエス・キリストご自身が自らがメシヤ、キリストであるということを証言してくださるということがまず第一にあります。そのことをもって、イエスはキリストであると受け止めた人は、今度は次の人に向かって解き明かしていく義務と責任が与えられますよ、ということです。イエス・キリストが自らを証しする、そのことは止むことはない、ので、本来の手引きする者、同伴してくれる聖書解釈者はイエス・キリストのみです。そのことを根拠に同伴して聖書を読み、イエス・キリストの意味とか意義とかが我が事として心の中に染み渡るように導いてくれる人が与えられるのだ、そして今度は、それに自分が参画していく、その道があるのだ、ということを確認しましょうよ、というのが今日の聖書の箇所です。

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