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今日の聖書でペトロは、ここで二つのことを言っています。「ここで起こっているのは、酔った人たちの姿なのではありません。むしろ、目覚めていく姿なのです」ということ。「ここで起こっていることは、『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。』」と旧約聖書のヨエル書に書かれていることそのものなのだ、ということ。「すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」と。 聖霊が注がれると、「若者は幻を見る。」ここでの幻とは、将来に対する希望や未来を受け入れる勇気のことです。将来が不安な若者が、これからの時代、どんな困難が待ち受けていようとも聖霊の力を信じていくことで乗り越えられるということです。また、「老人は夢を見る」とは、何十年もずっと神さまに守られてきた、辛いこともたくさんあったけれど、守られていたから今ここにいるのだと感謝した時、今までの辛いことではなく、楽しかったこと嬉しかったことばかりを思い出して、その心に支えられて、残された日も同じように守られ生きていくのだという安心感に満たされることです。また、お金持ちに雇われて働くような身分の低く、そのため、言うことまで信用されない人たちが、聖霊の力によって神さまからのメッセージを堂々と語る力が与えられるということです。 このように、全ての人々が主イエスからの力を聖霊によって降り注がれたことで、勇気づけられ元気づけられている今、ここに神の働きがあるのだというのです。それが一人ひとりという個人だけの体験ではなくて、教会という集まりの中に起こっているのだということです。 この経験をする人たち一人ひとりには、主イエスからの聖霊の働きが与えられているのだから、このことを感謝して、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」ことを信じましょうということです。「主の名」は、「イエスさま」と読み替えることができます。主イエスの名前を呼んでいくこと、神を呼んでいくことは、それぞれ一人ひとりが今聖霊の働きに与っていることへの感謝の気持ちを表す、一番はっきりした神様への答え方です。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」つまり、主イエスの名前を呼び続けていくときには、助けがあるということです。どんな困ったことや悩みがあっても解決していくことができる可能性に対して、いつも開かれているということです。それを一人ひとりの心の中に閉じ込めてしまうのではなくて、「わたしたち」という教会の関わりの中でこそ、できていくのだという約束が、ここにはあります。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」お互いにイエスさまの名前を呼び続けてごらん。そうすれば、聖霊の力が働いてあなたの言葉や心はどんどん開かれ広がって、他の人とつながって、孤独ではないことがわかってくる、ということです。そのことがイエス・キリストの神の願いだろうと思います。
当時、庶民の暮らしというのは、なかなか大変だったようで、今日のたとえでは「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」とあります。これは、わたしたちの通常の生活からはちょっと考えにくいことです。食うや食わずの暮らしをしている人がイエスの周りには多かったということなのでしょう。ですから「三つのパン」さえも貸し渋るということがあったし、借りる方も「三つのパン」さえないという状態です。けれども、その隣の友だちに何度でも執拗に頼み込め、というのです。聞きいれられるまで、頼み倒していくという、そういうことができる関係が用意されているのだから何の心配もないということです。 たとえの後でイエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と断言します。執拗に求め続けていくことは祈りのあり方です。その祈りの中心に「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」があるです。ペンテコステに起こった異言の出来事は自分のあるがままの姿をさらすことで新しい関係を指示しています。異言を語る者、それを母語として聞く者との関係にはまず「壊し」があったのです。そのような力が聖霊によって自分の仮面を外し、自分の殻を破り、自分の壁を壊していく、それを主イエス・キリストの聖霊の力が約束してくださっているのだから、わたしたちが、あれやこれやのことについてあきらめてしまう必要はないのです。だからこそ求め続けていくこと、探し続けていくこと、門を叩き続けていくことが求められているのです。これは、新しい関係というものを絶えず追求していくことができるし、他者との関係においても何かしらの新しい発見がいつだって用意されているということです。 わたしたちの教会も実は有機的な関係の集まりで、絶えず関係というのは動き続けているものです。固定した関係ではありません。一人ひとり、また群れとしての関係は聖霊の働きによって、より主にふさわしい姿に向かって育てられ続けていく、そういう性質のものだろうと考えています。 今日のパンをくれと率直に祈り求めるような正直さ、そのようなところに向かって導いてくださる聖霊の働きというものは決して無効になるということはない、のです。わたしたちは日々の暮らしの中で色んな疲れることがあって、色んなところで「まあ、こんなもんか」と妥協して安直な解決を試みようとするけれども、あきらめる必要はない、ということです。主イエス・キリストはご自身がそうであったように、わたしたちをも常に新しい関係、相応しいあり方というものに導こうとされているのではないでしょうか。この働きというものが聖霊の今であると考えているわけです。
導入部分の、主イエス・キリストの誕生にまつわる箇所(1:23‐25)と終盤の今日の聖書によって、イエスの活動はサンドイッチ状態になっています。神の思いによって遣わされる男の子は、「その名はインマヌエルと呼ばれる」。インマヌエルの意味するところは「神は我々と共におられる」ことである。人の名前には、それぞれ意味が与えられています。イエスという言葉の意味を辿っていくと、「神は救う」となります。 イエスの生涯は、神がわたしたちと共にいてくださるようにして救いを与える方としてこの世に来られ、政治犯として、また奴隷の死刑である十字架に磔られました。この両者にはさまれた主イエスの活動は、それゆえ「神は我々と共におられる」という宣言と共にガリラヤという被差別地域の人々と友となる歩み続けることでした。被差別地域で生きている人々の尊厳を取り戻し、生き直しへと促すべく、歩みよっていて下さり、共にいてくださる生涯を思い浮かべましょう。 人が、悩み苦しみ、あがき苦しむところ、病に襲われている場所、これらの人が生きていく上での困難を、簡潔に表わす言葉があるとすれば、孤独だろうと思います。他者とのつながりが不可能であると考えたり、自分の存在が不確かなものとして感じられ、ひとりぼっち感、無力感、生きていく価値がないなどと追い詰められていく場所。多かれ少なかれ、わたしたちは、この孤独感に苦しみます。孤独感に常につきまとわれ、辛い日々を送っている人もいるでしょう。しかし、ここにいるわたしたちに向かって、主イエスは歩み続けて下さり、その結果十字架によって処刑されなければなりませんでした。しかし、主イエスは十字架刑によって殺されてしまっても、その死にさえ打ち勝ってくださったのです。 主イエスが共にいてくださること、ここから、わたしたちは孤独から解かれていきます。そして、さらには他者に向かっていく道へと導かれていくのです。そして、この道の前方には、自己相対化していくあり方が備えられています。自分のあり方の間違いに気づかされていくことによって、生き方の修正の迫りを受けることです。同時に、復活の主イエスが共にいてくださることによって解かれた孤独からの自由は、他者とのつながりにおいて、自分のあり方を絶えず修正していく可能性に拓かれていくのです。 わたしたちは、主イエス・キリストの復活の力によって孤独から解かれています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との言葉は、真実の言葉です。この言葉によって、わたしたちはいつも守られています。この主イエスの守りに信頼しつつ、歩んでいく道は、すでにここにあるのです。
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