ルカによる福音書 11章1~13節 「聖霊は今」
当時、庶民の暮らしというのは、なかなか大変だったようで、今日のたとえでは「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」とあります。これは、わたしたちの通常の生活からはちょっと考えにくいことです。食うや食わずの暮らしをしている人がイエスの周りには多かったということなのでしょう。ですから「三つのパン」さえも貸し渋るということがあったし、借りる方も「三つのパン」さえないという状態です。けれども、その隣の友だちに何度でも執拗に頼み込め、というのです。聞きいれられるまで、頼み倒していくという、そういうことができる関係が用意されているのだから何の心配もないということです。 たとえの後でイエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と断言します。執拗に求め続けていくことは祈りのあり方です。その祈りの中心に「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」があるです。ペンテコステに起こった異言の出来事は自分のあるがままの姿をさらすことで新しい関係を指示しています。異言を語る者、それを母語として聞く者との関係にはまず「壊し」があったのです。そのような力が聖霊によって自分の仮面を外し、自分の殻を破り、自分の壁を壊していく、それを主イエス・キリストの聖霊の力が約束してくださっているのだから、わたしたちが、あれやこれやのことについてあきらめてしまう必要はないのです。だからこそ求め続けていくこと、探し続けていくこと、門を叩き続けていくことが求められているのです。これは、新しい関係というものを絶えず追求していくことができるし、他者との関係においても何かしらの新しい発見がいつだって用意されているということです。 わたしたちの教会も実は有機的な関係の集まりで、絶えず関係というのは動き続けているものです。固定した関係ではありません。一人ひとり、また群れとしての関係は聖霊の働きによって、より主にふさわしい姿に向かって育てられ続けていく、そういう性質のものだろうと考えています。 今日のパンをくれと率直に祈り求めるような正直さ、そのようなところに向かって導いてくださる聖霊の働きというものは決して無効になるということはない、のです。わたしたちは日々の暮らしの中で色んな疲れることがあって、色んなところで「まあ、こんなもんか」と妥協して安直な解決を試みようとするけれども、あきらめる必要はない、ということです。主イエス・キリストはご自身がそうであったように、わたしたちをも常に新しい関係、相応しいあり方というものに導こうとされているのではないでしょうか。この働きというものが聖霊の今であると考えているわけです。
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