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2011年5月

2011年5月29日 (日)

ルカによる福音書 7章1~10節 「信頼に生きる」

百人隊長が大切にしている部下が死にかかるほどの病になっているので何とか助けてほしいと使いに託します。この百人隊長は、主イエスがユダヤ人であり、ユダヤ人は異邦人との交わりを嫌うことを知っていたのでしょう。遠慮して、自分で直接話をせず、知り合いの長老たちに助けを伝えるようにしたのです。  そして、主イエスとその一行が百人隊長の家に近づくと、今度は友人が登場して次のような言葉を伝えるのです。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。(6-8節)」  すると、10節「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」。  事を成す言葉への信頼こそが、死につつある者さえも元気にしてしまう、権威と力ある言葉なのだということなのです。ただし、誰彼の言葉ということではなくて、主イエスの言葉のみにまことがあることへの信頼、信への促しを読み手に印象付けようとしているのがテキストの意志です。 自分の部下に対しての直向な気持ちに正直であることへの主イエスの導きと働き、その言葉の権威と力に委ねるとき、部下である奴隷が元気になったように、死というものを越えていく権威と力への信頼に生きる道が備えられていくのだという約束が、ここに語られているのです。  わたしたちに求められているのは、今日の百人隊長の態度に示されている、直向な主イエスへの権威と力に満ちた言葉への信頼に生きる姿勢です。  主イエスの求めておられる生き方とは、神の言葉に打たれることで、「わたしの」エゴイズムが解かれていき、自分の命や意志を相対化しつつ、謙虚さに生きることです。わたしたちは、かの百人隊長と同じように、主イエスの神への委ねにおいて起こってくる新しい世界観の約束のうちにあります。この主イエスの言葉の権威と力に委ねていく生き方は、精神的なことや内面的なことではありません。わたしたちの今生きていることが具体である以上、充分政治的であり、現実的な事柄とのかかわりにおいて、委ねつつ生きるあり方が求められています。  教会は、その時々の時代の中で、イエス・キリストの出来事に信頼して生きていく使命が与えられているのです。

2011年5月22日 (日)

ヨハネによる福音書 15章12~17節 「信従の基本」

今日の聖書は、直前の5章1節~11節で語られている「わたしはまことのぶどうの木」であることを根拠にして、互いに愛することを12節では「掟」として、17節では「命令」として示そうとしています。 まず、主イエスの言葉である「互いに愛し合いなさい」が、即座には、わたしたちには不可能であることを自覚することから始めるべきです。「わたしがあなたがたを愛したように」という主イエスのあり方からしか、わたしたちにはその可能性が拓けてはこないのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語られています。イエスが自分の命を捨て去られたのは、わたしたちの命を掛け替えのない尊い事柄として取り戻し、わたしたちが「永遠の命が漲る今」という祝福を受けるためだったのです。この主イエスの十字架によってこそ拓かれてくる関係が、主人と僕という関係ではなくて、お互いを友と呼び合う関係として、自らを差し出してくださる主イエスの姿を思い起こさせるのです。  主イエスが友となってくださるところに根拠を据えることによってのみ、わたしたちが他者の友となっていく「互いに愛し合いなさい」という筋道が備えられていくのです。わたしたちの側から、その可能性を手に入れることはできず、ただ恵みとして、憐れみとして受けるところからしか始まらないのです。  わたしたちは、主イエスからの歩み寄りである「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」との言葉の重さの前に立ちつくすべきです。わたしたちは無力であり、思い上がりと傲慢さがつきまとっており、自分の能力や努力の甲斐なく惨めで救いようのないことを思い知るべきです。 「わたしが愛したように」と根拠を示してくださり、同時に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ことを自らの生涯において示してくださっている主イエス・キリストに留まること、このことによって「互いに愛し合う」ように他者に向かいあう方向性に招かれていることを厳粛に受け止めたいと願っています。 この「戒め」と「命令」は、わたしたちからは、決して至ることができない道ですが、今や、主イエス自らが、わたしたちを友と呼んでくださっているからこそ、すでにわたしたちは「互いに愛し合う」途上にあるのです。この事実を受け止め、歩んでいくとき、わたしたちには、祝福された、大いなる実りが約束されていることを信じることが赦されているのです。ここに希望を繋ぎつつ、「互いに愛し合う」べく他者に向かっていくところ、ここに信従の基本が備えられているのです。

2011年5月15日 (日)

ルカによる福音書 6章34~40節 「命のパン」

主イエス・キリストは「わたしが命のパンである」と語っておられます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)と。永遠の命というのは将来のことなのではなく、今イエス・キリストによって支えられている命を感謝して、そして、イエス・キリストに信じて従う決断を新たに日ごとに行なっていくように促されているということです。また、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17:3)と。 このように見ていくと、永遠の命というのは、イエス・キリストを知るということです。ただ単に知識として知るということではありません。イエス・キリストがわたしにとって抜き差しならない関係を絶えず持とうとなさっている、いつも語りかけてくださり、すぐわたしたちの目の前にいてくださるということに気が付くようにと促しがある、ということです。そのことによって、今をイエス・キリストにあって喜んでいくことができる、そういう命のあり方を肯定していく、その肯定に対する決断が永遠の命という言葉によって表わされているのです。その自己肯定の姿もいろいろあります。 現在進行形として今が過ぎていくことのただ中にわたしたちは巻き込まれつつ過ごしています。このかけがいのない瞬間というものに主イエス・キリストご自身が絶えず共なっていてくださる、ということを信じることが赦される。赦されてあることから決断していくことができる、それが永遠の命というものが促している事柄です。  わたしは今本当に生きているのか、という風に自らを問う時に、どこかで自分をごまかしてはいないだろうか、本当に今この場所に心も身体も共にいるのだろうか、イエス・キリスト、その方に対して想いを寄せているのだろうか、ということを思います。  イエス・キリストが今、この瞬間に共にいてくださろうとしているのです。前もって語られているイエス・キリストの言葉をそこで再確認することで、イエス・キリストの語られる言葉がまことであるという風に気づかされ、追認していくのです。そこに向かって立ち返らされていくのが今だというのです。一つひとつのわたしたちの弱りであるとか悩みであるとか痛みであるとか、ということは、主イエス・キリストご自身は、すべてご存知なので、絶えず「わたしが命のパンである」と命の言葉をいつもわたしたちに向かって差し、わたしたちの存在の根っこを支えてくださっているのです。それを根拠として受け止め直しながら、今週もまたわたしたちは過ぎ去っていく今というものを慈しみながら過ごしていきたいと願っています。

2011年5月 8日 (日)

ルカによる福音書 24章36~43節 「具体的な身体」

主イエス・キリストは、よみがえられました。しかも具体的な身体をもってです。かつて言っておいたことを復活のイエス・キリストの身体において振り返ってみよという促しがあります。  イエス・キリストの復活という出来事から過去を振り返るときに、神の必然「ねばならない」主イエス・キリストの苦しみの道から復活、そして天に召されるという出来事が、聖書(旧約聖書のこと)に書かれていたということが明らかにされていくのです。この神の必然としての歴史というものが、キリストの復活において表わされているわけで、十字架において主イエス・キリストはあらゆる人間の罪、中心的な避け難い罪というものを負われたのです。主イエス・キリストの十字架が、わたし(たち)のためであるのなら、よみがえり、具体的な身体の復活という出来事も、わたしないしはわたしたちのため、であるわけです。 主イエス・キリストが具体的な身体をもってよみがえられたことによって、わたしたちの罪というものが十字架において負われ、主イエスのよみがえりにおいて、その罪が赦されていくという約束が示されます。そうして、わたしたちは具体的な身体をもって歩んでいくことが赦されているのです。イエス・キリストの十字架の出来事が、わたしたちの心の目を開かせてくださるのです。心の目でわたしたちは何を見るのか。具体的な身体をもって主イエスがよみがえられたのだから、わたしたちも自らの具体的な身体をもってこの世の中で暮らしていくことができる、その道筋を見ることができるのです。  イエス・キリストの復活の姿が、わたしたちがどういう風に生きていくかということを先取りしています。わたしたちは具体的な身体をもっていますから、この世での旅を終えれば死というものを迎えなければならないし、成長過程において様々な困難に出会います。そしてまた、それぞれの日常を生きる中で、色々な悩みがあります。それらを抱えたままわたしたちは、主イエス・キリストが具体的な身体としてよみがえってくださったことによって、「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」との約束において、すでに守られてしまっているのです。どんなに弱くあろうとも具体的な身体をもっている、このわたしを、受け止めてくださる、手を主イエスはもっておられるのです。このことを信じることができ、同時にわたしたちは主イエス・キリストの慰めを見出すことができるのです。  このようなわけなので、わたしたちは弱い、生身の身体のままあって、そのままで祝福されているのだから、平安と安心のうちに歩むことが赦されているのです。

2011年5月 1日 (日)

ルカによる福音書 24章13~35節 「イエスは生きている」

今日の聖書は、二人の弟子のエマオへの道を描いた物語です。彼らは主イエスの十字架の意義が理解できていません。十字架によって処刑されたイエスに失望し、絶望し落ち武者のように故郷へ帰りゆくのです。イエスは、この二人の弟子たちの理想像としての救い主ではなかった。正確に言えば、この二人はかつてイエスご自身が語られた証言を正しく聞いていなかったのです。イエスに躓き、挫折し、敗北感を抱え、「暗い顔」をしてうつむく生活への逆戻りに向かう途中だったのです。この二人の「暗い顔」は、わたしたちと全く無縁でしょうか。生活に疲れ、様々なこの世での思い煩いから、とかくイエスの行ないと言葉とを忘れがちになってしまっている姿と別のことでしょうか。あるいは、心の中で思い描くイエス像を勝手に肥大化させて、一挙に全てを解決してしまう、万能観に満ち満ちた優れた革命家だと考えていたのに、無残な死によって全てが終わってしまったという落胆は、しばしばわたしたちが陥る無力感や挫折感と似ているかもしれません。  今日の聖書の告げるところは、まさにそのような、人間の知恵や技術や能力の無力さに打ちひしがれている、人間の儚さを感じずにはおかれない惨めさに向かって、自らがその惨めさや無力さを全て身に受け歩まれた方を思い起こすことを、わたしたちに求めるようにとの促しではないでしょうか。  二人の弟子の敗北の途上にも、わたしたちの暮らしの中にも、イエスがすぐ傍にいてくださることを思い出すようにと促しているのです。  彼らも、そしてわたしたちも孤独に打ちひしがれる必要はありません。イエスの側から共に歩んでくださっているからです。気が付いていないのですが、イエスは絶えず気づきをもたらしてくださろうとしています。  エマオ途上において、二人の弟子たちが「イエスは生きている」と気づかされたのは、聖書の説き証しとパン裂きにおいておいてでした。教会において、「イエスは生きている」ことを思い出す時として聖餐式があるのです。 「イエスは生きている」ことは、かつての二人の弟子たちも、わたしたちも、心の深いところでイエスとつながっているので、どのような困難に出会っても、支えられているという安心感が基本にあるのです。  主イエスは、何度もご自身について語られました。神の必然として「ねばならない」苦しみの道である十字架、復活についてです。主イエスご自身の言葉に従っていく促しを受けるとき、わたしたちの心の目が開かれ、イエスの思いに打たれ、「心が燃える」ようにして、主イエス・キリストの道に共々あずかり歩み続けていくことができていくに違いありません。ここにおいて、わたしたちは、「イエスは生きている」と共に告白できる教会のつながり、イエスによってむすばれている<いのち>のつながりを感謝し、受けることが赦されていくのです。

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