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2011年5月15日 (日)

ルカによる福音書 6章34~40節 「命のパン」

主イエス・キリストは「わたしが命のパンである」と語っておられます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)と。永遠の命というのは将来のことなのではなく、今イエス・キリストによって支えられている命を感謝して、そして、イエス・キリストに信じて従う決断を新たに日ごとに行なっていくように促されているということです。また、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17:3)と。 このように見ていくと、永遠の命というのは、イエス・キリストを知るということです。ただ単に知識として知るということではありません。イエス・キリストがわたしにとって抜き差しならない関係を絶えず持とうとなさっている、いつも語りかけてくださり、すぐわたしたちの目の前にいてくださるということに気が付くようにと促しがある、ということです。そのことによって、今をイエス・キリストにあって喜んでいくことができる、そういう命のあり方を肯定していく、その肯定に対する決断が永遠の命という言葉によって表わされているのです。その自己肯定の姿もいろいろあります。 現在進行形として今が過ぎていくことのただ中にわたしたちは巻き込まれつつ過ごしています。このかけがいのない瞬間というものに主イエス・キリストご自身が絶えず共なっていてくださる、ということを信じることが赦される。赦されてあることから決断していくことができる、それが永遠の命というものが促している事柄です。  わたしは今本当に生きているのか、という風に自らを問う時に、どこかで自分をごまかしてはいないだろうか、本当に今この場所に心も身体も共にいるのだろうか、イエス・キリスト、その方に対して想いを寄せているのだろうか、ということを思います。  イエス・キリストが今、この瞬間に共にいてくださろうとしているのです。前もって語られているイエス・キリストの言葉をそこで再確認することで、イエス・キリストの語られる言葉がまことであるという風に気づかされ、追認していくのです。そこに向かって立ち返らされていくのが今だというのです。一つひとつのわたしたちの弱りであるとか悩みであるとか痛みであるとか、ということは、主イエス・キリストご自身は、すべてご存知なので、絶えず「わたしが命のパンである」と命の言葉をいつもわたしたちに向かって差し、わたしたちの存在の根っこを支えてくださっているのです。それを根拠として受け止め直しながら、今週もまたわたしたちは過ぎ去っていく今というものを慈しみながら過ごしていきたいと願っています。

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