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2011年5月22日 (日)

ヨハネによる福音書 15章12~17節 「信従の基本」

今日の聖書は、直前の5章1節~11節で語られている「わたしはまことのぶどうの木」であることを根拠にして、互いに愛することを12節では「掟」として、17節では「命令」として示そうとしています。 まず、主イエスの言葉である「互いに愛し合いなさい」が、即座には、わたしたちには不可能であることを自覚することから始めるべきです。「わたしがあなたがたを愛したように」という主イエスのあり方からしか、わたしたちにはその可能性が拓けてはこないのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語られています。イエスが自分の命を捨て去られたのは、わたしたちの命を掛け替えのない尊い事柄として取り戻し、わたしたちが「永遠の命が漲る今」という祝福を受けるためだったのです。この主イエスの十字架によってこそ拓かれてくる関係が、主人と僕という関係ではなくて、お互いを友と呼び合う関係として、自らを差し出してくださる主イエスの姿を思い起こさせるのです。  主イエスが友となってくださるところに根拠を据えることによってのみ、わたしたちが他者の友となっていく「互いに愛し合いなさい」という筋道が備えられていくのです。わたしたちの側から、その可能性を手に入れることはできず、ただ恵みとして、憐れみとして受けるところからしか始まらないのです。  わたしたちは、主イエスからの歩み寄りである「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」との言葉の重さの前に立ちつくすべきです。わたしたちは無力であり、思い上がりと傲慢さがつきまとっており、自分の能力や努力の甲斐なく惨めで救いようのないことを思い知るべきです。 「わたしが愛したように」と根拠を示してくださり、同時に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ことを自らの生涯において示してくださっている主イエス・キリストに留まること、このことによって「互いに愛し合う」ように他者に向かいあう方向性に招かれていることを厳粛に受け止めたいと願っています。 この「戒め」と「命令」は、わたしたちからは、決して至ることができない道ですが、今や、主イエス自らが、わたしたちを友と呼んでくださっているからこそ、すでにわたしたちは「互いに愛し合う」途上にあるのです。この事実を受け止め、歩んでいくとき、わたしたちには、祝福された、大いなる実りが約束されていることを信じることが赦されているのです。ここに希望を繋ぎつつ、「互いに愛し合う」べく他者に向かっていくところ、ここに信従の基本が備えられているのです。

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