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2011年4月

2011年4月24日 (日)

ルカによる福音書 24章1~12節 「空の墓

主イエスの空の墓は復活を指し示します。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」とあるように、十字架と復活とは神の必然によるもの、つまり、この主イエスの歩まれた道は、神によって定められているものであるということです。  復活とは、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」との指示からすれば、生前のイエスの活動に目を注ぎ、その主イエスの活動のあり方へと導かれ、それぞれが復活の主イエスにつながっていくということでしょうか。復活の主イエスと共なる<いのち>に与って生きていくことが、キリスト者が復活を生きていくことなのでしょう(4:14-21の会堂での活動を参照)。  主イエスの活動は必ずしも全ての人から歓迎されたわけではありません。敵対する者も当然現れてくるのです。その結果が十字架刑でありました。しかし、主イエスは神から与えられた使命に対して忠実であり、従順でありました。疎外されている人々と共にいることによって神の意志がどこに向かっているのかを明らかにすべく生き抜いて見せたのです。この生きる姿勢は、いわゆる「平地の説教」に表されています(6:20-37を特に参照)。  貧しさ、飢え、悲しみの場にあり、憎まれ罵られ汚名を着せられるような場にある、その人たちに幸いをもたらしつつ、より困難な道である「敵を愛せ」との教えへと導く「神の憐れみ」のうちに生かされていくこと、ここに復活があるのです。  つまり、生前の主イエスのあり方すべてを思いだせるだけ思い出しながら、一人ひとりが小さなキリストのようにして生かされていることを憐れみの中で確認していきながら、自らのあり方を自己検証していくところに、すでに主イエスの復活の力によって支えられた生き方があるのです。  復活を祝うこととは、主イエスの後を信じて従うことが赦されている根拠を共々確認し感謝し、お互いの<いのち>を喜びあうことです。主イエスの復活によって、それぞれが自分の使命の与えられている場において、キリストの姿を求めていくところに、すでにそれぞれが復活の<いのち>に与ってしまっているのです。言いかえれば、主イエスの復活を祝うということは、十字架刑に処せられた主イエスに従うことであり、それはすなわち、わたしたちがそれぞれのガリラヤである現場で小さくされている人々と共に生きることを決意、確認することでもあるのです。  なぜならば、主イエスの十字架において、わたしたちの存在の一番根っこにある、自分でさえ認識できないほど、醜く救い難い罪と呼ばれる事柄が担われてしまっており、同時に復活の力によって赦されてしまっているからです。

2011年4月17日 (日)

ルカによる福音書 22章39~53節 「祈るイエスを見つめて」

主イエスは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈ります。できることであるなら苦しみの道、十字架刑から逃れたい、という率直な祈りと願いを述べます。しかし、祈りが深められていくときに、誘惑に陥らない生き方へと、その祈りが展開されていくのです。「しかし」となり、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りへと転じていくのです。 この祈りによって、御心のままとしての神の「ねばならない」という方向に委ねていく生き方と死に方と復活の仕方を主イエス・キリストは貫かれていったのです。  十字架にはりつけられたキリストの祈りは、わたしたち全ての祈りを神への賛美、神への応答として整えてくださるように導いてくださっています。そのことによって主イエス・キリストの祈りは、その人を助け、支えるのです。まず主イエス・キリストご自身が、その祈る道筋をご自身によって備えてくださっているからこそ、わたしたちはそのように祈ることができるし、その祈りが聞かれていることを信じることができるのです。 さらにはキリストの名によって祈ることによって、つまりキリストがわたしたち一人ひとりの全ての祈りを執り成してくださることによって、今度はわたしたちが他者とのつながりを求め、お互いに支え合うことができるような祈りへと導かれていくという道に可能性が開かれているのです。  ですから、わたしたちは祈るキリストを見つめることによって、他者を覚えて祈ることによってキリストにあって、どこかでつながっていく<いのち>のつながりを実感していくことができるのです。この道へと導かれている、と思います。祈ることによって、どこかでキリストにあって<いのち>のつながりがあるのではないでしょうか。そして、そのような祈りが網の目のようにして世界中に広がっていく、そうした時に一人ひとりが<いのち>がつながっている実感によって、新たに生き直していく希望の道へと導かれていくのです。その道筋を求めて、主イエス・キリストが絶えず祈っていてくださるのです。わたしたちがキリストの名によって祈るに先立って、絶えず祈ってくださっているキリストがあるのです。  このような祈りを主イエス・キリストは今日もこの世界に向かって祈り続けてくださっているのです。これを信じることができれば、わたしたちの祈りというものが、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という主イエス・キリストの祈りに共鳴しながら新たな何事かが起こっていく道が用意されており、その期待感の中でわたしたちは歩み続けていくことができるのです。

2011年4月10日 (日)

ルカによる福音書 20章9~19節 「神の歴史に示されて」

絶えずイスラエルに対して想いを寄せ、手を差し伸べる神(=ぶどう園主)と、宗教的指導者(=農夫、小作人)たちの背信の歴史が対比されて、あなたたちはどう判断するのか、という問いが今日のテキストになります。 ぶどう園の収穫を納めさせるために僕を送ったとあります。この収穫というのは、おそらく神に対する応答、供え物、あるいは信仰的態度なのでしょうが、それを求めたのです。ここで遣わした僕というのは預言者たちのことです。一人目は「袋叩きにして何も持たせないで追い返した」、二人目は「袋叩きにして侮辱して何も持たせないで追い返した」、さらに三人目は「傷を負わせて放り出した」と、その僕の扱いがよりひどくなっています。ぶどう園主は、一人目二人目三人目、それがどんどんひどく扱われていることに対して耐えて待つ、という態度を貫きます。神ご自身が不信で応答してくる民に対して耐え忍ばれているわけです。その上で神は「どうしようか」という風に考えられたのです。  そこで出された結論が「わたしの愛する息子を送ってみよう」ということでした。常識的にはさらにひどくあしらわれることは当然想像がついた、にもかかわらず、イスラエルの民の背信から悔い改めることへの期待を込めて、愛する独り子を送る決心をなさった、というのです。主イエスご自身の殺されていくのだという決意、神の必然として「ねばならない」ということを自ら引き受けていく、その苦しみの道を自らの使命として貫こうとされる主イエス・キリストご自身が神の思いを受けて、栄光のキリストの力によって振る舞うのではなくて、あえて卑賤の道、謙遜の道、従順の道としての十字架への道を選び取るように歩まれた、ということです。つまり主イエス・キリストは、神の決断の中で、いわば捨てられる者として、神の独り子として自らが神の位、神の身分というものを捨てるようにして十字架へと向かわれた、ということです(フィリピ2:6以下)。  そのような生涯を歩まれていったのです。神の歴史に忠実な僕として、つまり先の三人に遥かに凌ぐ仕方で徹底した神の僕として、主イエス・キリストは歩まれたということです。捨てられたということです。しかも、その捨てられたあり方にこそ教会の基、教会の基礎があるのだというのです。「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。」価値のない、建築家の目にも留まらないようなちっぽけな石ころ、それが教会の基なのだと。苦しみ捨てられていく、このキリストにこそ教会の基はある、苦しむキリスト、そこには惨めさと穢れと弱々しさと賤しさと情けなさ、そんなものが凝縮されている、にもかかわらず、ではなくて、だからこそ、そこにあえて希望していく生き方がキリスト者の生き方なのだ、ということです。

2011年4月 3日 (日)

ルカによる福音書 9章28~36節 「栄光のキリスト、十字架のイエス」

3人の弟子たちに与えられている眠気とは、ゲッセマネの園での祈りの記事でも同様なのですが、無理解を示すものです。つまり、目の前にイエスがいるのに、そのイエスが分からなくなっている様を表します。栄光に輝くイエスの姿に目を奪われてしまうことで、前進するイエスの歩みを認めることができず停滞しているのです。さらには、その栄光に包まれた場に留まり続けたいという願いを持っていたのです。「仮小屋」とありますから一生そこにいるつもりはなかったにせよ、そこには宗教的に心地よく満足させる何ものかが確実にあったということでしょう。弟子たちは完全に誤りに陥っています。神の歴史における使命を与えられた人々は、神の言葉によって、その場に安住するということはないのです。  律法の代表格であるモーセは、彼は十戒が与えられましたが、民のもとに帰り信仰生活を建て直す使命を帯びて山を下らなければなりませんでした。預言者の代表格であるエリヤは、神のか細い声を山で聞くのですが、モーセと同様にそこに留まっていることは、その使命ではありませんでした。新たな闘いが待ち受けていたのです。  この律法の代表格であるモーセと預言者の代表格であるエリヤか語っていたのは、神の歴史の「ねばならない」という出来事がイエスにおいてなされるということであったのです。31節によれば次のようにあります。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」ここで「最期」という言葉が使われています。元の言葉はエクソドスというギリシャ語で、旧約の「出エジプト記」のギリシャ語読みも同じ言葉です。脱出、出ていくことなどの意味です。田川建三は新約のギリシャ語より古い古代ギリシャ語の用法として「終曲」を訳語として採用しています。「最期」という言葉では、エクソドスに込められているのは十字架の死までという印象がありますが、ルカによる福音書というドラマの「終曲」は十字架と復活をも含みますから、「終曲」の方が相応しいようです。  選ばれた者として主イエスは十字架に向かわれます。今日の聖書のすぐ前の23-27節で受難予告がなされていますが、弟子たちは、これを理解できなかったのでしょう。  この無理解な弟子たちもやがては復活のキリストに出会って初めて十字架と復活が決して別のことではないことが明らかにされます。  イエスを受け止めるときに栄光のキリストとすることは困難ではないでしょうし、主流の考え方かもしれません。しかし聖書から読み返していくならば、これは間違いであり不信仰な立場であることが示されます。今日の聖書も予め受難予告がなされた後でのテキストであり、この後悪霊払いから再び受難予告の文脈につながっていくからです(9:44-45)。 弟子たちは無理解のゆえに、恐ろしさに示されるごまかしと傲慢とが顔をもたげてくるのです。だからこそ、さらに続く文脈では、自分たちのうち誰がいちばん偉いかという議論が起きるのです(9:46)。 そこで、「イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。』」(9:47-48)と物語は転じてくるのです。  これらの文脈から判断するならば、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」である終曲とは、幼い子どもに代表される名もなき人々、員数外の罪人、徴税人など、当時の被差別者たちの日常に寄り添い続けられた、その道の貫徹です。この十字架にいたる道を選んで歩まれた決意が、十字架の先の復活をもたらす尊いものであったと読み取ることが、この「終曲」という言葉から求められているのではないでしょうか。この道をあなたは共に歩むことができるのか、どうなのか、この問いが今日の聖書を語ろうとしているところなのではないでしょうか。  わたしたちの暮らしは、栄光のキリストに魅惑される弟子たちに親和的です。礼拝も、信仰生活も、キリスト者とは如何なるものか、などという問いが襲いかかってきたとしても、もはや真剣に受け取ることをやめてしまっているのが21世紀の人間の賢さであり英知なのかもしれません。  しかし、わたしたちは今、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という言葉に従い、十字架の愚かさへと向かって、新しく悔い改めつつ、歩みを整えることが神の歴史への参与であり、ここに神の求めのあることを確認したいと願っています。 パウロは主イエスの十字架を深く受け止めた神学者であり宣教者でした。今日の聖書にはパウロの信仰への立ち返りから解釈されるところの、神の歴史が物語として語られているのではないでしょうか。私たちは、注意深く耳を傾けることが求められているのです(Ⅰコリント1:18-31参照)。  このように、ルカからパウロに時代を遡らせて聖書が聖書を解釈する方向へと導かれる中で、確かにキリストは栄光には違いないのだけれど、どこか一か所に留まっていて身動き一つ取ろうとしない不自由な方ではなくて、一人の幼子の全てを包み受け入れ祝福しつつ、それゆえ十字架へと向かうイエスこそがその方であることに、わたしは、望みを抱くことができるのです。  山を下りて歩み続け、十字架へと向かう、その道には、律法からすれば罪とされる中でしか生活できない人々がいるのです。徴税人であったり、決められた律法を守る余裕がなかったり、聖なる休みの日にも労働せざるをえなかったり……。生活をしていく、生きていくことそのものが律法という縄でぐるぐると縛りあげられているような人々です。この人々に自由を得させることは当時の法律からすれば、死刑、しかも十字架刑に相当します。それほどの格差社会だったわけです。  イエスは殺されていきます。しかし、よみがえりを信じ、今ここにイエスが共にいてくださること、心から信じることが赦された一人ひとりには、神からの力がすでに備えられてしまっています。この十字架のイエスによって、栄光のキリストの向かって、今度は、わたしたちが「『誇る者は主を誇れ』と書いてある」(Ⅰコリント1:31)ように栄光のキリストを信じつつ歩むことへと導かれていくのです。

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