ルカによる福音書 24章1~12節 「空の墓
主イエスの空の墓は復活を指し示します。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」とあるように、十字架と復活とは神の必然によるもの、つまり、この主イエスの歩まれた道は、神によって定められているものであるということです。 復活とは、「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」との指示からすれば、生前のイエスの活動に目を注ぎ、その主イエスの活動のあり方へと導かれ、それぞれが復活の主イエスにつながっていくということでしょうか。復活の主イエスと共なる<いのち>に与って生きていくことが、キリスト者が復活を生きていくことなのでしょう(4:14-21の会堂での活動を参照)。 主イエスの活動は必ずしも全ての人から歓迎されたわけではありません。敵対する者も当然現れてくるのです。その結果が十字架刑でありました。しかし、主イエスは神から与えられた使命に対して忠実であり、従順でありました。疎外されている人々と共にいることによって神の意志がどこに向かっているのかを明らかにすべく生き抜いて見せたのです。この生きる姿勢は、いわゆる「平地の説教」に表されています(6:20-37を特に参照)。 貧しさ、飢え、悲しみの場にあり、憎まれ罵られ汚名を着せられるような場にある、その人たちに幸いをもたらしつつ、より困難な道である「敵を愛せ」との教えへと導く「神の憐れみ」のうちに生かされていくこと、ここに復活があるのです。 つまり、生前の主イエスのあり方すべてを思いだせるだけ思い出しながら、一人ひとりが小さなキリストのようにして生かされていることを憐れみの中で確認していきながら、自らのあり方を自己検証していくところに、すでに主イエスの復活の力によって支えられた生き方があるのです。 復活を祝うこととは、主イエスの後を信じて従うことが赦されている根拠を共々確認し感謝し、お互いの<いのち>を喜びあうことです。主イエスの復活によって、それぞれが自分の使命の与えられている場において、キリストの姿を求めていくところに、すでにそれぞれが復活の<いのち>に与ってしまっているのです。言いかえれば、主イエスの復活を祝うということは、十字架刑に処せられた主イエスに従うことであり、それはすなわち、わたしたちがそれぞれのガリラヤである現場で小さくされている人々と共に生きることを決意、確認することでもあるのです。 なぜならば、主イエスの十字架において、わたしたちの存在の一番根っこにある、自分でさえ認識できないほど、醜く救い難い罪と呼ばれる事柄が担われてしまっており、同時に復活の力によって赦されてしまっているからです。
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