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2011年3月

2011年3月20日 (日)

ルカによる福音書 11章14~26節 「的を外さない生き方」

「イエスは勝利者だ」ということが、まず確認されなくてはなりません。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」(10:18)とあるように、主イエスはサタンが失墜していく様を見ています。この世においてサタンが暴れているわけだけれども、それは最期の悪あがきをしているに過ぎないのです。 神の支配、神の国というものは、イエス・キリストの到来において、すでになったという側面が語られています。しかしながら、同時に、いまだ来ていない、その途上に教会は働いています。主イエス・キリストに倣いながら、悪あがきを続けているその悪魔と教会は闘わなくてならないのです。しかしながら、勝利者イエスという事柄を忘れてしまう時には、教会は過剰反応してしまうことがあるのです。家を隅から隅まで掃除して、完璧に整えてしまうと、悪魔にとって非常に良い環境が整えられ、悪魔は自分よりも悪い他の悪魔、七つの霊(強大さを表す七に注意)を結果的に招き寄せてしまうのです。それで、その人の後の状態は前よりも悪くなる、という話です。 適度な汚れというのは、人間が暮らしていくのには必要なんじゃないかと思います。これが、人間の暮らしだけではなくて、信仰的にも同じことが言えるわけで、潔癖な信仰というものは、さらに強く悪霊を引き寄せてしまうようなものをもっているということです。綺麗にしたいという思いが偏狭さにつながり異質なものの排除へと進んでいくわけです。そうではなくて、掃除し尽くさないためには、あくまでも勝利者イエス、その方にお任せしていく中で、すでに守られているのだから、多少自らが汚れてしまっても、それをイエスが勝利者として代わりに負ってくださっているというところに委ねていけば、程々の汚れの中で何とかなるじゃないか、という風に思うわけです。  イエスの働きというものに委ねていく、必要以上に厳格な完璧を求めてしまうことであるとか、行きすぎたものの考え方にはまり込んでいくときには、イエスがなさっている勝利というものから、相当後退してしまうのです。イエスの働きを逆戻りさせてしまうような信仰の質に変わっていく可能性があるわけです。それは、イエス・キリストの神を認めないところにつながっていきます。  イエスの道行きから逆戻りさせない方向が的を外さない生き方につながっていくということです。

2011年3月13日 (日)

ルカによる福音書 4章1~1節 「惑わされない視座」

この三つの誘惑というのは主イエス・キリストの生涯の全てを前もって述べています。主イエス・キリストがどういう方向性のもとで歩まれたか、ということです。それはこの世における万能感というものに溺れてしまうような誘惑を退けられての歩みを神の子として、神に仕える仕方で、神への怖れを持って歩まれたのです。そのような仕方で試みを拒絶されたということです。  ここで言われている誘惑とは、通常わたしたちが考えている、悪しき事柄へと向かうようなあり方への欲望ではありません。むしろ、善きこと、美しいこと、あるいは人間の力を頼りにして、より良きことへと願う願いが叶えられていくようなあり方です。 まず最初に思い浮かぶのは創世記のアダムとエバの物語です。ここに誘惑の基本があります。神は「エデンの園にあるどんな木の実を食べてもいいけれども、園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからだと言われた」、とあります。ところが、ヘビは女に向かって「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ」というのです。つまり、ここで言われている誘惑というのは、神のようになりたい、という欲望のことです。より賢くなりたい、より優れたものとなりたい、という願いをもって人間に与えられているところの限界というものを踏越えようとしてしまう、そういう欲望のことを誘惑といいます。 この間わたしたちは人間の倫理、あるいは技術は、自認する程には向上していないのだ、ということを思い知らされています。核であるとか、遺伝子を組み替えたりとか、人間の限界、人間の判断、能力を超えた事柄を人間は扱ってはいけないのではないでしょうか。天地を創られた神のあり方により近づきたい、という欲望というものを感じます。人間は与えられている分を越えた万能感を満たしたいという欲望へと誘惑されてしまうのだと誘惑物語は示しています。今ある場所に踏みとどまる努力というものが必要ではないでしょうか。人間は創造者なる神ではなくて、あくまでも創られたもの、被造物ですから、限界を持っているわけです。その越えてはならない限界の中で分を弁えて生きるべきです。それを越えてしまうということは、創造者である神をないがしろにしてしまうということと全く別のことではありません。その限界というものを知りながら、神が人間に与えているあり方、その中で生きていくことが、わたしたちの課題なのではないでしょうか。

2011年3月 6日 (日)

詩編 46:2~12 「神にのみ希望がある」

今日の聖書は、前もって神の確かさを語ります。続いて「海」という言葉の象徴するところの、人間の力ではどうすることもできない混沌がこの世において力を振るい、混乱が生じている現実が、示されます。しかし、神のもとでは「大河」や「流れ」といった「川」のイメージを象徴する、「海」とは逆の、地を潤し<いのち>を育むイメージを対峙させるのです。この対比によって、この世に生きている一人一人の状況が「海」のようであっても、神のもとには「川」があるので、そこには「夜明け」に象徴される希望によって助けが用意されているというのです。  この詩の歴史的背景には、政情不安があり、政治的判断を権力者たちが誤って、どこかの国により頼もうとしたり、富国強兵政策を選び取ったりすることへの批判が込められています。目先の利益や策略を弄する権力者や王たちの愚かさから神の賢さへ、いわば武装放棄にこそ神の道が備えられているのです。神は戦争の神ではなくて、「神われらと共にいてくださる」平和の神なのだから、その神の道に歩むのだ、という促しが含まれているのです。  11節には「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」とあります。この力とは武力に代表される、人間が神に成り変ってでもこの世を支配したい、という悪魔の誘いを示します。この力を捨てることこそが、神を神として崇めることだというのです。  まず、神を知ることが、わたしたちに対しての神の側からの求めであることに今朝は立ち返りましょう。神の偉大さによって、次のように語られる神の目指す平和な世界に関わりを持たされてしまっていることへの気づきから始めるべきではないでしょうか。 実際現代には、戦争は止むことなく、殺され傷つき倒れていく人々は絶えませんし、戦争はなくても戦死者に匹敵するほどの自殺者がいる国に暮らすわたしたちにとって決して大げさな言葉ではありません。それほど厳しい社会に、わたしたちの暮らしは置かれているのです。にもかかわらず、ではなくて、だからこそ、今一度神にのみ希望があることを今朝共々確認して、今週の歩みを始めたいと願うのです。  「神にのみ希望がある」ことを確認するのは、信仰の基本です。神の助けの確かさ、神の前に立つ者には神自らが「避けどころ」であり「砦」であるので、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」というインマヌエルの出来事に、神の導きによって踏みとどまりましょう。そうすれば、どのような困難をも絶望することなく、希望のうちに歩むことができるのです(Ⅰコリント10:13参照)。

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