詩編 46:2~12 「神にのみ希望がある」
今日の聖書は、前もって神の確かさを語ります。続いて「海」という言葉の象徴するところの、人間の力ではどうすることもできない混沌がこの世において力を振るい、混乱が生じている現実が、示されます。しかし、神のもとでは「大河」や「流れ」といった「川」のイメージを象徴する、「海」とは逆の、地を潤し<いのち>を育むイメージを対峙させるのです。この対比によって、この世に生きている一人一人の状況が「海」のようであっても、神のもとには「川」があるので、そこには「夜明け」に象徴される希望によって助けが用意されているというのです。 この詩の歴史的背景には、政情不安があり、政治的判断を権力者たちが誤って、どこかの国により頼もうとしたり、富国強兵政策を選び取ったりすることへの批判が込められています。目先の利益や策略を弄する権力者や王たちの愚かさから神の賢さへ、いわば武装放棄にこそ神の道が備えられているのです。神は戦争の神ではなくて、「神われらと共にいてくださる」平和の神なのだから、その神の道に歩むのだ、という促しが含まれているのです。 11節には「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」とあります。この力とは武力に代表される、人間が神に成り変ってでもこの世を支配したい、という悪魔の誘いを示します。この力を捨てることこそが、神を神として崇めることだというのです。 まず、神を知ることが、わたしたちに対しての神の側からの求めであることに今朝は立ち返りましょう。神の偉大さによって、次のように語られる神の目指す平和な世界に関わりを持たされてしまっていることへの気づきから始めるべきではないでしょうか。 実際現代には、戦争は止むことなく、殺され傷つき倒れていく人々は絶えませんし、戦争はなくても戦死者に匹敵するほどの自殺者がいる国に暮らすわたしたちにとって決して大げさな言葉ではありません。それほど厳しい社会に、わたしたちの暮らしは置かれているのです。にもかかわらず、ではなくて、だからこそ、今一度神にのみ希望があることを今朝共々確認して、今週の歩みを始めたいと願うのです。 「神にのみ希望がある」ことを確認するのは、信仰の基本です。神の助けの確かさ、神の前に立つ者には神自らが「避けどころ」であり「砦」であるので、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」というインマヌエルの出来事に、神の導きによって踏みとどまりましょう。そうすれば、どのような困難をも絶望することなく、希望のうちに歩むことができるのです(Ⅰコリント10:13参照)。
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