ルカによる福音書 4章1~1節 「惑わされない視座」
この三つの誘惑というのは主イエス・キリストの生涯の全てを前もって述べています。主イエス・キリストがどういう方向性のもとで歩まれたか、ということです。それはこの世における万能感というものに溺れてしまうような誘惑を退けられての歩みを神の子として、神に仕える仕方で、神への怖れを持って歩まれたのです。そのような仕方で試みを拒絶されたということです。 ここで言われている誘惑とは、通常わたしたちが考えている、悪しき事柄へと向かうようなあり方への欲望ではありません。むしろ、善きこと、美しいこと、あるいは人間の力を頼りにして、より良きことへと願う願いが叶えられていくようなあり方です。 まず最初に思い浮かぶのは創世記のアダムとエバの物語です。ここに誘惑の基本があります。神は「エデンの園にあるどんな木の実を食べてもいいけれども、園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからだと言われた」、とあります。ところが、ヘビは女に向かって「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ」というのです。つまり、ここで言われている誘惑というのは、神のようになりたい、という欲望のことです。より賢くなりたい、より優れたものとなりたい、という願いをもって人間に与えられているところの限界というものを踏越えようとしてしまう、そういう欲望のことを誘惑といいます。 この間わたしたちは人間の倫理、あるいは技術は、自認する程には向上していないのだ、ということを思い知らされています。核であるとか、遺伝子を組み替えたりとか、人間の限界、人間の判断、能力を超えた事柄を人間は扱ってはいけないのではないでしょうか。天地を創られた神のあり方により近づきたい、という欲望というものを感じます。人間は与えられている分を越えた万能感を満たしたいという欲望へと誘惑されてしまうのだと誘惑物語は示しています。今ある場所に踏みとどまる努力というものが必要ではないでしょうか。人間は創造者なる神ではなくて、あくまでも創られたもの、被造物ですから、限界を持っているわけです。その越えてはならない限界の中で分を弁えて生きるべきです。それを越えてしまうということは、創造者である神をないがしろにしてしまうということと全く別のことではありません。その限界というものを知りながら、神が人間に与えているあり方、その中で生きていくことが、わたしたちの課題なのではないでしょうか。
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