« コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節「自らの信を問う」 | トップページ | ルカによる福音書 6章1~5節「自由」 »

2011年2月 6日 (日)

コリントの信徒への手紙一 2章1~5節「同伴者イエス」

 パウロは伝道旅行を続けていましたが、決して順風満帆だったのではなく、苦難の連続であったのです(Ⅱコリント11:23b‐27参照)。この旅の中で、キリストを信じる人たちは確かに増えつつあったのですが、アテネからコリントに辿りついたときには、パウロは心身共に疲れ果てていたようです(使徒17章参照)。パウロには彼が「とげ」と呼ぶところの持病がありましたが、弱い身体のままで受け入れられていることを悟っていました(Ⅱコリント12:9)。2章3節では「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」とパウロは自らの弱さをさらけ出します。しかし、平安に生かされている今を感謝する姿勢を失っていません。 「わたしもそちらに行ったとき(1節)」とありますが、パウロは、心のからだを心底疲れさせる状況の中で、自分の存在が一人ではないことに堅く立っています。「も」で表わされている方の存在によって支えられていることを確信しているのです。それは、いうまでもなく、十字架のキリストです。この弱り果てた自分に向かう同行者イエス、十字架のキリストの存在によって支えられていることが確かであると信じているのです(Ⅱコリント13:4)。  自らの弱さをさらけ出しつつ「優れた言葉や知恵を用いませんでした(2:1後半)」。この決意が「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(2:2)」という事柄です(同伴者としての主についての詩、マーガレット・F・パワーズの「あしあと」参照)。  主イエス・キリストの十字架によって背負われているのが、わたしたちの生涯であることをパウロはよくわかっていました。どのような苦難があろうとも、キリストに背負われている生涯には祝福の約束があるのです。自らの弱さをさらけ出しつつも、最終的には十字架のキリストが、いつも共にいて支えていてくださることを信じることが、わたしたちには赦されているのです。  パウロが、その病と非常な恐れと不安の中で安心を生きることができたのは、自らを頼りとしないで同伴者イエスだけを頼りとすることへと導かれていたからです。主イエスは、福音書によれば、平安や平和をもたらすことによって、病や弱り、差別や偏見と闘い、つねに寄り添う方として描かれています。様々な場面で、より小さくされた人々一人ひとりに向かって、一番ふさわしい言葉と振る舞いとで接し、同伴者となってくださったのです。その主イエスがパウロにとっても同伴者であったように、今日のわたしたちとっても同伴者として、わたしたちの人生に寄り添ってくださっているのです。

« コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節「自らの信を問う」 | トップページ | ルカによる福音書 6章1~5節「自由」 »

コリントの信徒への手紙一」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: コリントの信徒への手紙一 2章1~5節「同伴者イエス」:

« コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節「自らの信を問う」 | トップページ | ルカによる福音書 6章1~5節「自由」 »

無料ブログはココログ