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2011年1月

2011年1月30日 (日)

コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節「自らの信を問う」

キリスト者は、この世にあって「本国は天にあり(フィリピ3:20)」つつ、暫定的にこの世を旅しています。それゆえ、この世に対して寛容である部分と非寛容である部分というものを見極めながら、つまり、この世に対していかなる立場をとりうるかということを絶えず自己検証しながら歩まなければならないのだ、ということを今日の聖書は述べています。とりわけ今日の与えられたテキストは「非寛容」に属する事柄が語られています。  信仰に立ち、光の側、キリストの側、信仰の側、神の神殿の側に立つということとは、キリスト・イエスの在り方に倣びつつ歩むあり方のことです。それは例えば、次のような聖書に示されます。「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10)」  非寛容という主イエスが歩んだ道に寄り添う仕方で歩め、そうならざるをえないことがキリスト者にはありうる、ということなのです。キリスト者であるということは、この世の常識や価値観と相容れないことが多いにありうるのです。とりわけ近代から現代に至る日本という国の中でキリスト者が絶えず葛藤してきた悩ましい問題、また重たい課題というものが存在します。端的に言えば、象徴天皇制とどう向かい合うか、というところです。キリストに従う時の非寛容な面として、わたしは日の丸・君が代・靖国神社というものに対して否定的な立場にあります。他のことに関しては、相当妥協します。けれども、この点に関しては譲れません。 残念ながら日本基督教団は、体制に協力していく中で成立したという負の歴史をもっています。これは明らかに十戒の第1項から第3項の違反です(出エジ20:2-7参照)。神でないものにひれ伏してしまうあり方、これはキリスト者として避けなければいけないのです。 「義」とは神との関係において相応しく、良しとされるあり方です。つまり、主イエスの歩んだ道ゆきにおいて示される、より小さくされた者に寄り添いつつ、そのような状況をを作り出す社会に否を唱えていくことです。この視座に立つことは、しばしば権力との対立を生みだします。キリストに従うことは、義のために迫害される可能性をもっています。実際に神の義を貫くことが非常に困難な場面に立たされた時、それでもわたし自身は社会的要求を拒み続けられるか、分かりません。しかし、どのような迫害や困難があっても主イエス・キリストが、十字架上の主イエス・キリストが共にいてくださるならば、その教会は幸いという主イエス・キリストの祝福の言葉に包まれているに違いない、と信じることが赦されているのです

2011年1月23日 (日)

コリントの信徒への手紙一 1章1節~9節「ここに教会がある」

教会は人間の群れであるゆえの限界を持っています。それを弁えなくなっているのがパウロが去ってからのコリントの教会の姿です。かつて貧しい者、弱い者たちの群れであって、コリントという大都市の周縁で弱さを抱えた者たちがお互いの重荷を負うような仕方でなんとかイエス・キリストにあってつながっていこうじゃないかという、ひとつの運動が起こっていたのです。それがいつの間にか成り上がるものが出てきたのか、あるいは、お金持ちが多く加わるようになってきたのか、教会の中での価値観が逆転していく、そういう状況の中に当時のコリント教会は置かれていた可能性があるわけです。そうすると信仰の質というものも変わってくるわけです。と同時にパウロの使徒職についての疑いというのも起こってきます。それに対しての弁明も含めながら、この手紙は書かれています。パウロは、この弱いわたしさえも支えてくださるので、弱さのゆえに強いという仕方で自らイエス・キリストの証しを行なっています(Ⅱコリ13:4参照)。 弱りを覚えているパウロがイエス・キリストの招きというものと、それからイエス・キリストの弱さのただ中にこそ復活の力が働くという信仰理解のゆえに語りかけていって、今や思いあがって傲慢になって王様のようになっている、そういうコリントの教会員と、それから幅を利かせている当時のパウロに敵対する伝道者たちに対して十字架のキリストに立ち返るようにと促しているのだと思います。  彼らの言葉を使いながら彼らと同じ地平、同じ土俵に立ちながら、なんとかキリストにあってつながっていきたい、十字架のイエス・キリストによって結ばれている友として仲間としてもう一度やり直せないか、という促し、熱意が「コリントの信徒への手紙一」には溢れています。「神は真実な方です」「この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と。確かに今は立場の異なるように見えるけれども、「神は真実な方です」というところに立ち返っていくならば、もう一度やり直しが効いてくるし、教会が教会として「ここにある」と言いうる、そのような地点に歩み寄れるのではないか、という判断をおそらくパウロは持っていたと思います(かつての在り方への立ち返りについては1:26-18を参照)。わたしたちにも、思い上がりを捨てて、神が謙遜と遜りにおいて人間の友となった、より弱いところに神の思いが届けられた、それがイエス・キリストなのだ、と心に刻むことが促されています。いつも教会は不完全なままという限界を持っています。にもかかわらず、来たるべきキリストの日に至るまで、キリストの背中を見つめながら歩んでいき、祈り模索し考える、身体を動かしていく、そういう教会に向かって教会自身を整えていくところに現代の教会の意義があるのです。

2011年1月16日 (日)

ルカによる福音書 5章1節~11節「あきらめるのはまだ早い」

ルカによる福音書の文脈では、イエスの活動はすでに開始されています。イエスの語る言葉には権威と力とをもって汚れた霊に命じると出ていく、このようなイエスの在り方の中に神の言葉の持つ、人を生かす力のなったことが証言されています。さらには、その力はペトロのしゅうとめにも及んでいて、熱病が癒されたとの記事が続いています。そして、さらにその宣教を巡回していくイエスの姿が描かれる文脈に続いて今日の記事があることからすれば、少なくともペトロはイエスの語る言葉が人を生かす神の言葉そのものであることに気がつく契機を持っていたはずであり、今日の聖書では群衆は最低限そのことを知らされているからこそ、イエスの周りに集められ、熱心に耳を傾けていた様子を容易に想像することができるのです。  しかし、この時点では人を生かす神の言葉はペトロの耳には届かず、脇を通り過ぎてしまうかのように描かれています。自分の力や能力や経験といった、自分を頼りにしていると周りの声に耳を傾けなくなっていくように、ペトロもまた、神の言葉の届く距離の中にあっても耳を傾けようとはせず、自分の世界に自分の居場所を閉ざしているように読むことができます。すぐそこにいるイエス、そしてそこで語られている言葉と自分との関係に、まだ気がつかされていないのです。  漁師の暮らしに限らず、庶民である生活者は日々の暮らしだけで手いっぱいです。職業としての仕事にしろ、家事にしろ、育児にしろ、果てしなく続くかのような繰り返しの毎日の中で、生活を明日につなぐため手を休めることはできないのです。時には「自分はもうダメなのかもしれない」という思いにはまり込みます。  人を生かす神の言葉は、ペトロのところに意外な仕方でやってきます。 「そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。」(3-4節)。  ペトロは、プロの漁師です。大工から「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われる筋合いはないはずです。大工のあなたに漁師の何が分かるのか、という言葉を吐いたとしても咎められないはずです。 「シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。』」(5節前半)イエスからの言葉がこの自分に向かって語られていること、その言葉が自分に対して抜き差しならない事態であることを一晩の漁を振り返りつつ、こう語りながら、さらに続けて「『しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」(5節後半)  「しかし、お言葉ですから」この言葉は、あるいは皮肉を込めたものだったかもしれません。どうせ、あなたには、わたしのことなど何一つ分かりはしないのに何言ってるんだ、というような意味合いです。この自分のことは自分が一番分かっていて当然という、人間だれでももっていても不思議でない傲慢さを前提としながらも、なおイエスの語りかけによって頼るべき「まこと」に向かっての転機となるものです。「しかし、お言葉ですから」という言葉を引き出され、そして実際に唇にのせたことによって、イエスの言葉への信頼が起こされ、先程までの徒労感やあきらめ感は忘れ去られてしまったかのように、新たに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という言葉に促されていくのです。それが、何の疑いもなく当然であるかのように。  自分を頼りとするあり方から、他の何ものかへの信頼によって与えられる力が注がれたので、あきらめることなく新しい生き方の模索へと転じていったのです。結果、「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」(6節)というのです。自分に頼る方法では漁の成果は上がらなかったのに、イエスの言葉への信頼とその促しに従うと網が破れるほどの豊漁へと転じたというのです。  イエスの言葉のもたらす世界観は、あきらめではなく、希望へと向かうものです。絶えず希望の中にいれば、どのような困難に襲われても、大丈夫なのです。イエスの言葉が働き始める時、あきらめるのはまだ早いことが出来事として起こっていくのです。さらには、この出来事は神の言葉によって引き起こされた出来事ですから、ペトロという個人の中で自己完結することができないのです。豊漁によって得られたあり方は、赦しの出来事であるからこそ、その赦しの力に基づいて「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」(8節)ように、かつての惨めな自分の姿が赤裸々な現実として感知され、罪があからさまに照らし出されてしまうのです。自らの罪を赦しに対する応答として告白せざるを得なくさせられるのです。さらには、このペトロに起こった出来事は、他の人々に神の言葉の共鳴をもたらしていくのです。引き続きイエスによって語られる「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節)ことの意味は、ただ単に「恐れず伝道者として歩め」という命令に閉ざされることはありません。網で救われ、生け捕りにされるイメージからキリストの網に捉えられることから、キリスト教徒への回心という狭い意味よりも、その赦しの力に基づいてあきらめから、希望へと転じた自らの体験の現実感を今度は手渡す者へと招かれることを示します。同様に、「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(11節)の「すべてを捨てて」という言葉は、伝道にのみ邁進したと読まれるよりも、頼るべき方がイエス・キリストお一人なのだということが心に刻みつけられたことを意味します。  主イエスが口を開き、その言葉の共鳴に身も心も包まれてしまう時、生き方は根本から、赦しにおける方向付けがなされます。キリストの歩む道ゆきに同行する方向へと正されていくのです。自らの人生において、あきらめるのはまだ早いことが知らされることで人生に向かいある姿勢の方向転換がキリストに向かって導かれ、促されているのです。  かつてペトロが経験した出来事が、昔話や神話ではなく、今この時代におかれている、わたしたち全てに関わる物語であると今日の聖書は語っています。かつてペトロが経験した現実感をわたしたちの今に向かって開くべく、語り続けているイエス・キリストが、今日ここにいることを感謝して受けとめることで充分なのです。  この希望に生きる信仰の系譜はキング牧師やマザー・テレサなど、キリスト教信仰に基づく歴史的な偉人たちの業に閉じられることはありません。どこにでもいる庶民の間にこそ、見られるものです(写真絵本『きぼう』ローレン・トンプソン作ほるぷ出版を参照)。  イエス・キリストによって拓かれた世界観と信仰は、この悲惨な希望なき世界にあって、あえて希望する生き方への促しと導きに溢れているのです。

2011年1月 2日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章1節~12節「神の御心を求めつつ」

わたしたちは、それぞれが違う顔をもち、個性があり、別々の人格が与えられています。今日のテキストの後半の4節以降で展開されているのは、教会というわたしたちが、まず第一にひとつなのだということです。この一つ性を前提として、それぞれの役割分担、責任分担が教会の具体的な働きと交わりを成しているのだと述べられています。この同じテーマはコリントの信徒への手紙一 12章12節以降でも展開されています。それぞれ与えられた役割には上下や優劣の関係がないことが述べられています。ひとつのキリスト、ここへと集中していくことからのみ教会の今は問われなくてはならないと言うのです。  教会は、完成した人々の群れではありません。絶えず、キリストに相応しいのかどうかを、自己検証し続けていかないと道を踏み外してしまう危険性をもったものです。  その一つのキリストにのみ固着していきつつ自己検証し、教会としての相応しさを、神の御心を求めていくことこそが前提であることが、1節~3節で述べられています。 しく、自らをささげていくことなのだということです。このささげていく行為は、狭い理解では神奉仕としての礼拝ということになるのでしょうが、広い意味からすれば、キリスト者の生き方全体、あり方全体を示すものです。この世にあってどの様に振る舞っていくのかという教えとしてのキリスト教倫理の基本が述べられているのが、今日の聖書であり、その前提をまず点検し、自己検証することの必要性に集中しているのです。この態度は、わたしたち自身に根拠を置くのではなく、あくまでもキリストご自身にこそ、その根拠が既に与えられているということから、日ごとに新しく初めから行なっていくことです。  田川建三は「なすべき礼拝」のところを「神に仕える理性的な仕方」と訳しています。この理性とは、人間の知性や考えの冷静さのことではありません。理性とは神の事柄であるとの指摘に依っています。どれだけ、人間の知恵や理性を使ったとしても、到底神に及ぶはずがないという人間の限界を踏まえさせる発言であることに注意したいと思います。神の意志を人間が自分の持ち物のように勝手に振る舞うことは赦されてはいないのです。ここへの謙虚さを求めて歩むことが、神の御心を求めていくことです。  この自己検証を求める立場の下で、わたしたちはクリスマスの祝福のもと、新しい年を迎えています。クリスマスという出来事は、神が人となるという、全く新しい出来事です。この人となった主イエス・キリストの新しさは、神が共にいてくださる決意を表すクリスマスの祝福です。この祝福のもと新しい年を歩んでいきましょう。

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