コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節「自らの信を問う」
キリスト者は、この世にあって「本国は天にあり(フィリピ3:20)」つつ、暫定的にこの世を旅しています。それゆえ、この世に対して寛容である部分と非寛容である部分というものを見極めながら、つまり、この世に対していかなる立場をとりうるかということを絶えず自己検証しながら歩まなければならないのだ、ということを今日の聖書は述べています。とりわけ今日の与えられたテキストは「非寛容」に属する事柄が語られています。 信仰に立ち、光の側、キリストの側、信仰の側、神の神殿の側に立つということとは、キリスト・イエスの在り方に倣びつつ歩むあり方のことです。それは例えば、次のような聖書に示されます。「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10)」 非寛容という主イエスが歩んだ道に寄り添う仕方で歩め、そうならざるをえないことがキリスト者にはありうる、ということなのです。キリスト者であるということは、この世の常識や価値観と相容れないことが多いにありうるのです。とりわけ近代から現代に至る日本という国の中でキリスト者が絶えず葛藤してきた悩ましい問題、また重たい課題というものが存在します。端的に言えば、象徴天皇制とどう向かい合うか、というところです。キリストに従う時の非寛容な面として、わたしは日の丸・君が代・靖国神社というものに対して否定的な立場にあります。他のことに関しては、相当妥協します。けれども、この点に関しては譲れません。 残念ながら日本基督教団は、体制に協力していく中で成立したという負の歴史をもっています。これは明らかに十戒の第1項から第3項の違反です(出エジ20:2-7参照)。神でないものにひれ伏してしまうあり方、これはキリスト者として避けなければいけないのです。 「義」とは神との関係において相応しく、良しとされるあり方です。つまり、主イエスの歩んだ道ゆきにおいて示される、より小さくされた者に寄り添いつつ、そのような状況をを作り出す社会に否を唱えていくことです。この視座に立つことは、しばしば権力との対立を生みだします。キリストに従うことは、義のために迫害される可能性をもっています。実際に神の義を貫くことが非常に困難な場面に立たされた時、それでもわたし自身は社会的要求を拒み続けられるか、分かりません。しかし、どのような迫害や困難があっても主イエス・キリストが、十字架上の主イエス・キリストが共にいてくださるならば、その教会は幸いという主イエス・キリストの祝福の言葉に包まれているに違いない、と信じることが赦されているのです
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