ローマの信徒への手紙 12章1節~12節「神の御心を求めつつ」
わたしたちは、それぞれが違う顔をもち、個性があり、別々の人格が与えられています。今日のテキストの後半の4節以降で展開されているのは、教会というわたしたちが、まず第一にひとつなのだということです。この一つ性を前提として、それぞれの役割分担、責任分担が教会の具体的な働きと交わりを成しているのだと述べられています。この同じテーマはコリントの信徒への手紙一 12章12節以降でも展開されています。それぞれ与えられた役割には上下や優劣の関係がないことが述べられています。ひとつのキリスト、ここへと集中していくことからのみ教会の今は問われなくてはならないと言うのです。 教会は、完成した人々の群れではありません。絶えず、キリストに相応しいのかどうかを、自己検証し続けていかないと道を踏み外してしまう危険性をもったものです。 その一つのキリストにのみ固着していきつつ自己検証し、教会としての相応しさを、神の御心を求めていくことこそが前提であることが、1節~3節で述べられています。 しく、自らをささげていくことなのだということです。このささげていく行為は、狭い理解では神奉仕としての礼拝ということになるのでしょうが、広い意味からすれば、キリスト者の生き方全体、あり方全体を示すものです。この世にあってどの様に振る舞っていくのかという教えとしてのキリスト教倫理の基本が述べられているのが、今日の聖書であり、その前提をまず点検し、自己検証することの必要性に集中しているのです。この態度は、わたしたち自身に根拠を置くのではなく、あくまでもキリストご自身にこそ、その根拠が既に与えられているということから、日ごとに新しく初めから行なっていくことです。 田川建三は「なすべき礼拝」のところを「神に仕える理性的な仕方」と訳しています。この理性とは、人間の知性や考えの冷静さのことではありません。理性とは神の事柄であるとの指摘に依っています。どれだけ、人間の知恵や理性を使ったとしても、到底神に及ぶはずがないという人間の限界を踏まえさせる発言であることに注意したいと思います。神の意志を人間が自分の持ち物のように勝手に振る舞うことは赦されてはいないのです。ここへの謙虚さを求めて歩むことが、神の御心を求めていくことです。 この自己検証を求める立場の下で、わたしたちはクリスマスの祝福のもと、新しい年を迎えています。クリスマスという出来事は、神が人となるという、全く新しい出来事です。この人となった主イエス・キリストの新しさは、神が共にいてくださる決意を表すクリスマスの祝福です。この祝福のもと新しい年を歩んでいきましょう。
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