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2011年1月23日 (日)

コリントの信徒への手紙一 1章1節~9節「ここに教会がある」

教会は人間の群れであるゆえの限界を持っています。それを弁えなくなっているのがパウロが去ってからのコリントの教会の姿です。かつて貧しい者、弱い者たちの群れであって、コリントという大都市の周縁で弱さを抱えた者たちがお互いの重荷を負うような仕方でなんとかイエス・キリストにあってつながっていこうじゃないかという、ひとつの運動が起こっていたのです。それがいつの間にか成り上がるものが出てきたのか、あるいは、お金持ちが多く加わるようになってきたのか、教会の中での価値観が逆転していく、そういう状況の中に当時のコリント教会は置かれていた可能性があるわけです。そうすると信仰の質というものも変わってくるわけです。と同時にパウロの使徒職についての疑いというのも起こってきます。それに対しての弁明も含めながら、この手紙は書かれています。パウロは、この弱いわたしさえも支えてくださるので、弱さのゆえに強いという仕方で自らイエス・キリストの証しを行なっています(Ⅱコリ13:4参照)。 弱りを覚えているパウロがイエス・キリストの招きというものと、それからイエス・キリストの弱さのただ中にこそ復活の力が働くという信仰理解のゆえに語りかけていって、今や思いあがって傲慢になって王様のようになっている、そういうコリントの教会員と、それから幅を利かせている当時のパウロに敵対する伝道者たちに対して十字架のキリストに立ち返るようにと促しているのだと思います。  彼らの言葉を使いながら彼らと同じ地平、同じ土俵に立ちながら、なんとかキリストにあってつながっていきたい、十字架のイエス・キリストによって結ばれている友として仲間としてもう一度やり直せないか、という促し、熱意が「コリントの信徒への手紙一」には溢れています。「神は真実な方です」「この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と。確かに今は立場の異なるように見えるけれども、「神は真実な方です」というところに立ち返っていくならば、もう一度やり直しが効いてくるし、教会が教会として「ここにある」と言いうる、そのような地点に歩み寄れるのではないか、という判断をおそらくパウロは持っていたと思います(かつての在り方への立ち返りについては1:26-18を参照)。わたしたちにも、思い上がりを捨てて、神が謙遜と遜りにおいて人間の友となった、より弱いところに神の思いが届けられた、それがイエス・キリストなのだ、と心に刻むことが促されています。いつも教会は不完全なままという限界を持っています。にもかかわらず、来たるべきキリストの日に至るまで、キリストの背中を見つめながら歩んでいき、祈り模索し考える、身体を動かしていく、そういう教会に向かって教会自身を整えていくところに現代の教会の意義があるのです。

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