ルカ1:46-56「マリアの賛歌」
ルカによる福音書の降誕物語を読んでいくと、まずマリアの天使によって告げられる神の言葉に対して「お言葉通り、この身に成りますように」と自らを開いていく態度と同時に、神の意志がこの世において貫徹されることを積極的に述べます。すなわち、「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます(51-53節)」と。 この「マリアの賛歌」によって歌われているのが一体どのような方であるのかを前もって述べています。 わたしたちは、今年も飼い葉桶の幼子の誕生を喜びながら待つことを学んでいます。 イエス・キリストにおいて神の思いが徹頭徹尾実現されます。それはゲッセマネの祈りから十字架に至る従順は次の言葉によって示されています。 「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた」(23:46)と。 さらにまた、積極的な姿勢としては、罪の赦しの宣言や癒しの業において示されますが、明快なのは「平地の説教」のエッセンスにおいてです。イエスは「幸い」という祝福を「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」に向かって与えました。「極貧者」「今、飢餓状態にある人々」「今、悲しみに号泣する人々」に対してです。 この人々の生命がいかなる状態であろうとも、その一つひとつの生命は、あるがままにおいてすでに付加価値なしに祝福されてしまっている、この祝福によって、その悲惨さを乗り越えていくべき課題として捉え、決してあきらめず希望をもって生きていく道筋が確実にあるのだと示されたのです。 この方の言葉の真実さは、すでに「マリアの賛歌」において先取られて語られています。 無防備な姿で磔られる主イエスは、誕生においても無防備な姿で飼い葉桶に寝かされているのです。この無防備な主イエスの姿に救い主を見ることができる幸いこそが、わたしたちの信仰なのです。
最近のコメント