1_主日礼拝

※会堂に集まって礼拝することに不安を感じている人もいらっしゃると思います。

 会堂に集っての礼拝は続けていますが、不安がある中で無理に出席することをしなくても大丈夫です。

 

<礼拝予告 8月7日> 

平和聖日礼拝    午前10時30分

聖書  ローマの信徒への手紙 15章13節

説教 「戦争のない世界を望む」

説教者 原 宝

*本日の配信ですが、途切れてしまいました。原因は不明です。以下、説教原稿メモを載せておきます。

ローマの信徒への手紙 15章13節「戦争のない世界を望む」

2022年8月7日(日) 上大岡教会  平和聖日礼拝説教     原 宝

 おはようございます。本日は、ローマの信徒への手紙 15章13節「戦争のない世界を望む」という題でお話します。日本基督教団は、8月の最初の日曜日を「平和聖日」と定めています。「平和聖日」が制定された事情についてですが、広島への原爆投下によって被爆した牧師・信徒たちが、1961年の86日に、広島原爆投下の日を覚えて「平和聖日」を守るようにと、西中国教区として教団に要請しました。被爆キリスト者たちの訴えは、広く教団諸教会に届き、翌1962年、教団は8月の第1聖日を「平和聖日」と定めたのです。

 その後、教団は19673月に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(いわゆる、「戦責告白」)を、当時の教団議長・鈴木正久の名前で公にすることになります。この戦責告白を踏まえ、「平和聖日」に、かつて教団が戦争に協力した罪の告白を含めて、主の福音に照らしていま私たちはどう生きるべきかを問いつつ、礼拝を守ってきました。しかし、「平和聖日」についても、いわゆる「戦責告白」についても、1945年の敗戦直後ではなかったことからして教団が戦時下において、また戦後を迎えてにあたっての責任に対する自らのあり方や立ち位置が必ずしも明確ではなかったのではないかと、1962年生まれのわたしは考え込んでしまうのです。ですから、この「平和聖日」の礼拝の講壇から「戦争のない世界を望む」という題でお話することに全くの躊躇がないわけではありません。日本基督教団が積極的に戦争のための献金運動や戦闘機を国にささげたことを思う時、日本基督教団の牧師が「どの口で」との思いを引きずっているのです。それでも、あえて主イエスの 「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)との御言葉に立ち返ることを願いつつ、お話を続けます。

 戦争が始まり、その空気に埋もれてしまうことの中で国のあり方について批判的な立場をもつことが困難であったことをナチス支配に抵抗した牧師のひとりであったマルティン・ニーメラーは言葉に残しています。

【ナチスが共産主義を攻撃したとき、私は自分のことが多少不安だったが、共産主義者ではなかったから何もしなかった。ついでナチスは社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついでナチスによって学校が、新聞が、ユダヤ人が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチスはついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した――しかし、それでは遅すぎた。】

 このニーメラーという牧師はナチスに抵抗する、いわゆる「ドイツ教会闘争」の指導者のひとりでした。彼はドイツが敗戦を迎えるまでヒトラーの特別な囚人として収監されていたのです。ナチスに対する抵抗運動を担ったニーメラーでさえ、弾圧の広がりの中である種の他人事感から自由でなく、自分事になった時には遅かったと告白しているのです。この、無自覚というか他人事感があったことに、わたしたちは今一度思いを寄せることが必要であるように思われます。自分のあり方だけ、自分事だけの世界に留まってしまっていると、人間同士の関係の中で大切な事柄が欠けていくことがあるからです。他者に対する共感や共鳴と呼んでもいいのでしょうか。ルカによる福音書には、いわゆる「良きサマリア人のたとえ」と呼ばれる有名な物語があります。強盗に襲われた人が倒れているのを見て、祭司とレビ人というユダヤ教の教師たちが通り過ぎてしまった。しかし、通りすがりのユダヤ人と敵対し、憎しみ合っているサマリア人が介抱し、宿に連れて行き、宿代が足りなくなったら宿屋に支払う約束をした、という物語です。そこで、このたとえ話の中で「誰が隣人となったのか」と主イエスが律法の専門家に言葉を投げかけると、彼らは、「そのサマリア人です」ではなく「その人を助けた人です。」としか答えることができなかったというものです。つまり、サマリア人を肯定することができなかった。この律法の専門家に欠けていたのは、今生かされている他者への理解です。想像力の欠如からくる共感や共鳴することのできないあり方です。もちろん、当時のユダヤ人とサマリヤ人の敵対心や憎しみはあったのかもしれませんが、その相手がどのような人であろうといのちにおいて神の基準からすれば平等であることが忘れ去られていたのか、あるいは信仰ゆえに差別感情が強められていたのか、いずれにしても、神から貸し与えられているいのちの尊さよりも、当時の価値観を優先してしまったところに間違いがあります。さらに言えば、この間違いは現代のわたしたちにとっても決して無縁ではないということです。生まれ育ちの環境や教育によるいのちの上下、優劣がわたしたちの身体に染み込んでしまっているかのようなものがあるからです。この人には価値があってあの人には価値がない、という感覚は身に覚えがないでしょうか。その基準が「人種」であることもあるでしょうし、お金を持っているのかホームレスであるのか、あるいは尊敬に値するとか存在価値を認めないとか、強さや富や社会的評価など人のいのちさえも優劣で捉えて理解してしまうという習い性から、どれだけの人が自由なのでしょうか。より弱くされ、苦しみが強いられ、屈辱的な場にいる人たちに対する共鳴や共感を持つことができているのでしょうか。わたしたちに染み付いている価値観は、お金や権力や社会的地位など、いわゆる「強さ」に象徴されるあり方を良いこととして、その基準に自分を当て嵌めたり、あるいは憬れることで自己同一化をはかるようなことをしてはいないのでしょうか。戦争に至らなくてもヘイトスピーチのような排外主義や、違いを飲み込む仕方での同化する傾向から自由なのでしょうか。このいのちへの共感と共鳴について、昨日の2022年8月6日 広島「原爆の日」の平和式典で小学生たちによって練り込まれた平和への誓いが語られていました。

【今この瞬間も、日常を奪われている人たちが世界にはいます。戦争は、昔のことではないのです。自分が優位に立ち、自分の考えを押し通すこと、それは、強さとは言えません。本当の強さとは、違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心をもち、相手を理解しようとすることです。本当の強さをもてば、戦争は起こらないはずです。過去に起こったことを変えることはできません。しかし、未来は創ることができます。悲しみを受け止め、立ち上がった被爆者は、私たちのために、平和な広島を創ってくれました。今度は私たちの番です。被爆者の声を聞き、思いを想像すること。その思いをたくさんの人に伝えること。そして、自分も周りの人も大切にし、互いに助け合うこと。世界中の人の目に、平和な景色が映し出される未来を創るため、私たちは、行動していくことを誓います。】

ここには、人間のありようを正面から見据えることへと歩む小学生たちの心が感じられます。また、人間が平和へと歩む方向付けをも感じました。沖縄県糸満市の「沖縄県平和祈念資料館」の展示室の出口に掲げられている「むすびの言葉」が関係づけられるように思います。

【沖縄戦の実相にふれるたびに 戦争というものはこれほど残忍で これはど汚辱にまみれたものはないと思うのです この なまなましい体験の前ではいかなる人でも戦争を肯定し美化することはできないはずです 戦争をおこすのは たしかに 人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも私たち 人間 ではないでしょうか 戦後このかた 私たちは あらゆる戦争を憎み平和な島を建設せねば と思いつづけてきました これが あまりにも大きすぎた代償を払って得たゆずることのできない 私たちの信条なのです】 

戦争を肯定し美化していくことによって戦争をおこすのは確かに人間であるけれども、だからこそそれ以上に戦争を許さない努力のできるのも私たち人間だとの理解がここにあります。この人間のありようを、戦争するのかあるいはしないのか、との決断の前に立たされているのを感じるのです。同じ人間でありながら、戦争を行うことと行わないことの違いはどこにあるのでしょうか。先ほどの小学生たちによって作成された言葉から言えば次の部分に表されています。すなわち、「自分が優位に立ち、自分の考えを押し通すこと、それは、強さとは言えません。本当の強さとは、違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心をもち、相手を理解しようとすることです。本当の強さをもてば、戦争は起こらないはずです。過去に起こったことを変えることはできません。しかし、未来は創ることができます。」

ここで言われている「本当の強さ」を支えるのは、想像力、そして他者に対する共感と共鳴だと思います。わたしたちが生まれ育ち、教育されてきた(より正確には「飼育」されてきた)「強さ」という価値観とは相反する「強さ」です。この意味でパウロが二コリントの信徒への手紙二 1210節の言葉とも通じるのではないでしょうか。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」。ここには、ただ単にパウロの個人的な経験が語られているのではなくて、「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」によって結ばれる他者が存在しているはずなのです。今日、わたしたちは次のような聖書の言葉によって支えられています。すなわち、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」と。偽りの「強さ」から、主イエスに導かれるようにしてまことの「強さ」に向かう道が備えられていることを信じることができるのです。絶望の時代状況の中にあっても、あえて希望する信仰が聖霊の働きによって支えられるのです。この聖霊とは、偽りの「強さ」を退けることです。「弱さ」ゆえにこそ、まことの「強さ」へと導く力そのもののことです。この根拠として「聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださる」ところの主イエス・キリストが復活者として生きておられるゆえに、その生前の立ち居振る舞いに真似びながら歩んでいくことができること。その力が主イエス・キリストからやって来ることによって今のこととなるという信仰によって、現代日本におけるわたしたちの歩みが整えられていくことを願い、ご一緒に「平和聖日のしおり」にプリントされている、「平和を求める祈り」を交読しましょう。一行ずつわたしと皆さんで交互に読みますが、頭のそろっていないところは1行として考えてください。最後の行をご一緒に読んで、アーメンで締めくくりましょう。

上大岡教会のユーチューブのチャンネルです

日曜日の午前10時半から礼拝のライブ配信を行っています

下の「日本基督教団上大岡教会 主日礼拝」をクリックするとユーチューブチャンネルが開きます

「概要」欄の「上大岡教会ライブ配信」から見られます

動画は日曜限定です

 

上大岡教会ユーチューブチャンネル

 

 

※ご覧になった方は、お気づきのことと思いますが音質が良くありません。

 そこでお願いなのですが、ライブ配信に詳しい方がありましたら改善策についてご教示いただければと願っています。

 電話などをくだされば助かります。

 口頭では分からないこともあるかもしれません。

 できれば当教会にお越しくださり、配線などについてのアドバイスをいただければと願っています。

 快適な音声の状態になれば、僅かばかりですがお礼したいと思います。

 お願いできますでしょうか?

 

 

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